前の記事のカルチュラルコンピューティングを踏まえて、蜜葉が思うメディアアートをまとめようかなと。
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”メディアアート”という言葉はメディアとアートという2つの単語に分けることができます。
メディアとは主にメディアアートのもつ工学的な性質を表していて、工学や技術は常に進化する一過性であり動的なものです。
一方のアートとは、感覚的や感情的だったり直感的だったりします。また、アートは永続的であり静的です。
昔に描かれたピカソやゴッホの絵は、今もずっと評価されていて、これからも変わらずに評価され続けるでしょう。
メディアアートはこのように相反する性質をもつ2つの事柄から成り立っています。
この相反する性質のメリットをうまく取り出すことによって、アートとしてみたメディアアートには、アートが鑑賞者に与える直感や感覚をさらに拡張することができ、一方的に感じるだけだったアートを動的にする(インタラクティブ性を持たせる)ことができます。
また、工学としてみたメディアアートでは、工学のもつ一過性をアートを取り入れることで永続的にすることができ、小難しいと思われがちな工学に親しみを持たせることができます。
端的にいうと、メディアアートは、アートよりも人に近くて、工学よりも時間軸を超えたものだと言えます。
では、メディアアートとはどういったものを指すのか?
それは関係のない、なにかとなにかをつなぐ架け橋みたいなものだと思います。
もう少し言うと、なにかとなにかをつなぐインタフェースだったり、なにかとなにかをつないだ結果、得られる体験だったりします。
工学とアートを分けて考えると、なにかとなにかをつなぐ方法だったり、つなげる可能性が工学で、どうつないだか、どうビジュアライズしたかがアートになります。
メディアアートはどう作るのか?
メディアアートを作るにはいろんなアプローチがあると思います。
上に書いた得られる体験を狙って、なにかとなにかをつなげばいいのか、どうすればその体験ができるのかを考えて実現したりもします。
逆に、はじめからなにかとなにかを頭においてみて、どんな体験を与えたいか考えるのも1つだと思います。
ふとカレーが食べたくなったから材料を買ってきて作るのか、はたまた、たまたま、肉とじゃがいもと玉ねぎと人参があるから、カレーをつくろうと思ったのかに似ているような気がします。
こんなふうに、メディアアートには様々な可能性が眠っていますが、その切り口も様々です。
まず、時間軸が取り上げられます。
過去存在したものを、いま別の形で体験できるようにしたり、リアルタイムに撮影したムービーをつかって、いまこの時間をずらしたりすることが可能です。
次に、空間を飛び越えることができます。
日本でしか体験できないことがらを、国外で擬似的に体験できるようにしたり、東京タワーを仮想的に大阪に表示したりすることが可能です。
作り方と可能性はよく似ていて、可能性を探ることによって、作品が生まれたりします。
またテーマをおいて、その可能性を適応することもあります。
人と人とのコミュニケーションをテーマにするなら、バーバル行動とノンバーバル行動をつないでみて、その不一致から得られる人の挙動を可視化(無意識の流れ)したり、インフォーマルコミュニケーションを狙って、
例えば共通点のあるカクテルを注文した、無関係の人間をつなぐバー(インタラクティブバー)などがあります。
では、メディアアートにおける自分らしさとは、なんなのか。
やっぱり、つなぐ2つのなにかを、何にするのか、それは今までの体験や経験から生まれる着眼点が重要なのではないかと思います。
そしてそれをどう表現するのかが、アートとしてセンスの問われるところではないかなと。
そのセンスでアートな部分が、鑑賞者に謎を問いかけるものだったり、触ってみておもしろかったり、なにか想いを伝えたりと、自分のスタンスが表れるところではないかと思います。